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寒い夏休み


「あ、待って・・・」
と言う間もなく彼女は踵を返すとさっさと出発ゲートへ向かっていった。
僕はTーシャツの袖から延びる腕の先、その広げた掌の中指の先にいるカツカツと歩いていく彼女をただ眺めている。あぁ、またか。しょうが無いね・・・
そんなコトを考えながらじっと指先を眺める。
その日はまだ初夏であったがとても暑い日であった。
しかし空港の中はとても涼しかった、涼し過ぎるくらいである。
それでも一筋の汗が僕の額を流れている。

僕の彼女は小説家だ、しかもかなりの売れっ子である。
ベストセラーを生み出す才女なのだ。

彼女は時々取材や執筆という名目で何処か僕の知らない所へ出かけて行く。
僕はと言えば
「何時何分のフライト」
とだけ書かれたメールを貰うだけ。
いそいそ出かけてみれば
「別に見送りに来てとは言ってないわ」
と一言。

でも僕は彼女が来て欲しいと言えないコトを知っている。
彼女が素直になれないコトを知っている
だからいそいそと見送りに出かける。
行き先も知らない彼女を見送りに出かけるのだ。
今度は何処へ行くのやら、毎回僕には言わない、僕もそれを聞かない。
ただ見送るだけ、それが僕の役目。

僕は延ばした腕の先の広げた掌の中指をじっと眺めている。
その先は凛々しい彼女の後ろ姿だけ。
彼女は一度も降りかえること無く歩いていった。


僕は彼女の作品を読んだコトがナイ。
彼女が許してくれないのだ。
「あなたには読んで欲しくないの。」
書かれた内容は僕たち二人のコト、
彼女はそれを知られたくないのだ。
でも僕は知っている、それを知っている、それは彼女には秘密だけどね。


一度彼女の書いた小説が映画化されたコトがあった。
僕は彼女に内緒でその映画を見た。
そこに描かれていたのは僕たち二人のコト、
僕たちが過ごした時間がスクリーンに再現されている。
とっても不思議な感じだった。

一つだけ違うところもあった。
主人公二人が僕らよりもよっぽど美男美女だったことだ、僕はあんなにかっこよくないよ、ね。




彼女が台風のように去ってから一ヶ月が経った。
連絡は何もナイ。
僕は上の空で考えている、
そろそろだな、多分今日くらいかな、多分・・・
僕は上の空で荷作りを始める、パスポートの期限はまだあるしお金も多少は持ち合わせている、あとは出先で何とかなるか・・・


僕はしがないサラリーマンである。
彼女とは全然立場の違う男である。
でも二人とも全然気にしていない。
彼女は頓着しないヒトなのだ。
そして僕も頓着しない。

作家の恋人として紹介されるコトもあるけど
問題は無かった。
僕を追っても面白く無いからだろうね。


会社に出社してみると彼女からの手紙が届いている。
いつものコトである。
何故かいつも会社宛に手紙を送ってくる。
その手紙を右手であおりながらいい加減にアパートに送ってくれればいいのにと思ってしまう。

ついに来ましたか、さてさて・・・

手紙はさておきまずはディスクの上のPCに電源を入れメールチェックをする。
やっぱり・・・
そこには彼女からのメールが届いていた。

「執筆は順調よ」
はいはい、全然進んでないのね。

「食事もちゃんと摂ってるわ」
また外食にお菓子だね、ダメだなこりゃ。

「部屋も奇麗よ」
足の踏み場もナイんだろうね、多分。

「ル・グラン・ブルーのニルヴァーナなんか食べたくないわ、モエのシャンパンなんか飲みたくないわ」
はいはい、ニルヴァーナね、あの味が恋しくなったのね。

「あなたがいなくても大丈夫よ」
こりゃかなりきてるね、滅多に言わないセリフが出てる。
かなり切羽詰まってるのかね。

こんな一言だけのメールが20通近くも入っている。
はてさてと、これが売れっ子小説家の書くメールなのかと思うとぐったりである。
アカペンで添削したいくらいだ。

メール全てを丁寧に目を通してから先程の手紙の封を切る。
そこには往復の航空券が入っていた。
たったそれだけ、相変わらずなコトですね、あなたは。

僕は電話に手を取り彼女の好きなル・グラン・ブルーにニルヴァーナの予約を入れ
彼女の通うワインセラーにモエのシャンパンの用意を頼んだ。
小さいクーラーボックスも必要だな、帰りに買っていくかと独り言が出ている。
明日から夏休み、こういうことはちゃんと調べ抜いてるからね、さすがですよ、ほんと。

こうやって一ヶ月ほどで煮詰まる彼女の精神安定のために僕は出かける。
素直になれない彼女のもとへ。
僕は一ヶ月ぶりに逢える彼女を想い、彼女の待つ地へ向かうのだ、
それは仕事でも無ければ義務でもナイ、当然の帰結のようなものかもしれない。
これでいいのだ、これで・・・。

高々度を飛行する機内で僕は彼女のコトを考えている。
彼女は真っ先に、何しに来たのよと悪態を付くだろう。
それくらい言える元気はあるんだろうね、多分。
フライトはあと数時間も残っていた、もうちょっとだね、うん。


「何しに来たのよ、あなたなんかいなくても大丈夫よって言ったでしょ」
白いコートを着込み空港に迎えに来た彼女は予想通りのセリフを言った。

悪態を付きながらも彼女は僕の頬にキスをする。
僕は彼女を両手で抱きしめて背中をポンポン叩く。
大丈夫だよ、大丈夫、いつもここにいるからね。

うん・・・

彼女は素直に頷いた。
ちょっとだけ涙を浮かべた彼女はとても奇麗だった。
さぁ、締め切りが待ってるよ、さっさと仕上げて遊ぼうか。

うん、うん、うん・・・

彼女は頬を濡らしていた、僕は濡れた頬を両手で触れていた。
温かい頬をずっと触れていた。

外はとても寒かった、夏休みなのに冬の街へ降り立つとはいい休暇になりそうだ。
僕は心の中で呟いていた、寒い夏休みだねと呟いていた。
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